Column コラム
2012-1-27

今週、衝撃的な出来事が起こってしまった。
前の会社の1年先輩であり、新人で入寮した寮でも先輩だった方が、急死してしまったのである。

病名は「大動脈乖離」-
昨年11月から12月にかけて、2度ほど仕事の打合せ等で話をしていたが、その時には体調が悪いような印象は一切感じられなかった。だから、本人も予期せぬ中での死だった筈である。
年齢は55歳。まだまだ、本人もこれから頑張りたいと考えていた筈である。

今回の悲報に接して、自分自身、若いという意識をもって仕事をしてきたが、皆それなりの年齢を迎えようとしていることに気付かされた。どんなに元気な素振りでも、屈強な肉体を持っていても、死は訪れる。
しかも、いつ死を迎えることになるのかは誰にもわからない。
まさに、運命を知るのは神のみである。

いままでは生きるために過ごしてきた。
勉強する、仕事をする、食べる、寝る、笑う、怒る、、全てが生きるための行為だった。
その意識のみしかなかった。
しかし、これからは死ぬために生きるという意識を持たなければいけない。
どういうことか-
決して、生を否定したり、死の準備をするということではない。
逆に、いままで以上に生を噛みしめて日々を過ごすこととでも言おうか。
言い方を変えれば、日々の重要さを噛みしめながら、一日一日を生きて行くことである。

死の報に接して涙を流すことはなかった。でも、心を、気持ちを揺さぶる悲報となった。
明日の土曜日には、最後の別れに行ってこようと思う。